Drops

感情のしずくを貯める

浮遊霊の所感

2月21日、ようやくわたしは解放された。

宣告の日からずっと”その日”を迎えることが怖くて、自分がどうなるかわからなくて、めちゃくちゃ鬱だった。まさにタナトフォビア発動しまくり。

2ヶ月くらいスカステもまともに見られなかった。
まかまどの作品も、真風くんもまどかも見返せなかった。なにも見られない。今は意味がなく思えたから。
唯一見ていられるのは劇場でのアナスタシアという生の芝居だけ。
役そのものとして、生き生きと、笑って、怒って、悲しんで、そして幸せそうに微笑む2人だけ。それだけが真実だったから。
だから逆になにかを投影して泣くということもほとんどなく、生気のない人形みたいに行儀よく観ていた。

でも、前楽、いよいよわたしが劇場で観る最後の時間、ここで気持ちの区切りをきちんとつけておかないとたぶん後悔すると思って、頑張ってかなり前向きに悲しんだ。
やればできる、堰を切ったように悲しんで悲しんで悲しみすぎて、そのあと3日ほどほんとに顔が変になった(目のサイズが半分になった)くらい悲しんだので、千秋楽は意外と冷静だった。

 ”その日”に、このギリギリの精神が本格的に死んでしまうのかなとおぼろげに思っていたけど、今思えばたぶん11月30日の宣告の時点でわたしはすっかり死んでしまっていて、ずっと死んだことを受け入れられていなかった浮遊霊だったんだな、と千秋楽後に思った。

すべてが終わり、ほんの少しだけ心が安らいだ。これでもう、大好きな2人を前にして心が乾くことはない。
ここから先は、ただ交わらない道が続くだけ。
その道を見られるかどうかは、まだわからない。

ツイッターには2人の行く末を案じて嘆く言葉と、それでも前向きにそれぞれを応援する言葉が入り乱れて、それらを見ているとどんどん気持ちが沈んでいった。そしてそれ以外の、普段どおりなにも変わらない誰かの日常もあまりにわたしの感情とかけ離れていて、ツイッターを見なくなった。

誰の言葉にも共感しない。この感情のなかにわたし以外の誰も存在しない。

だから、世界で一番かなしく可哀相なのはわたし。
こんなときでも2人が愛おしいわたし。
その2人が選んだ道を、今は直視できない、この先を無垢に見守れない、わたし。
2人じゃない2人を知らない、初めて観たときから2人だったから。あまりに2人を愛しすぎてしまった。後悔した瞬間もあった。

「劇団を信じてる」
時折見かけた知らない人たちの言葉がとても滑稽に思えた。その言葉を支えにして踏み留まっている人たち。あるいは本当にそう思えている人たち。
信じてなんになるんだろう。信じるって、なにを?
こんな所業をなされてなお、一体なにをまだ期待しているんだろう。
この顛末の上に成り立つ未来に、一体どれほどの意味があるんだろう。
いつか振り返ったときにわかるのかもしれない。こんなこと意味はないと今は信じているわたしも、いずれは受け入れるようになる日があるのかもしれない。
けれど、この失われたものの大きさと引き換えられるほどのことがあるとも思わない。

その昔、一路真輝を好きだった頃。
とても素敵な男役だった。支える組子もバランスがよく皆大好きだった。いい演目にも恵まれていたと思う。
そして伝説の初演の偉業を成し遂げ、清く正しく美しい秩序をもって彼の人は去っていった。
イチロさんがいなくなった雪組は、宝塚は、あんなに大好きだったのに、その1人が去ったというだけで、わたしの中で急激に色を失った。他組はぎりぎり見られても、イチロさんをいつも支えてくれて大好きだったユキちゃんが引き続きまりを隣に迎え、組子に見守られてイチロさんが立っていたその場所に立つ姿がどうしても見れなかった。ついぞ今日まで一度も。
そしてすべては思い出になった。

いつもそう。わたしは”箱”ごと好きにならない。劇団ファンにはならない。ただそこにあるきらめきだけを愛する。
あのときでさえ。ただ1人の姿を愛して、清く正しく美しい秩序での終幕でさえ無理だったのに。

今回の件はあまりに狂気の沙汰すぎて、わたしの頭がおかしくなるのも当然。

きっといつ振り返っても新鮮に違和感のある決定。
納得する日はこない。こないからこそ、時間しかわたしを癒せない。この気持ちが早く乾き、色褪せ、過去になり、湿った感情を思い出さないようになるまで、早く時間がすぎればいい。

数多のトップコンビがそうしてきたように
手に手を取って共に最後をまっとうする、
そうでなくともせめて、先ゆく相手を敬愛と優しさをもって華々しく見送る、
いつかのその光景の美しさと儚さに涙するという、ささやかな夢。
その日を迎えるにもかなりの覚悟が必要だったというのに。
そしてまたゆっくりと美しい思い出になっていくと思っていた。

そんなのは大それた夢だった。まさか叶わないなんて、思いもしなかった。

この先も2人は強い意志で、たぶん分け合ったひとつの同じ意志を持って、それぞれの場所で闘う。それができることをわたしは知っている。狂気の決定だとしても、それを成し遂げると見込まれたからこそ狂気を託された。
そのそれぞれの姿を、あのときまでと同じ高まりで見られることは、きっとない。きっとその姿の隣に幻を見てしまう。それが2人の決意を軽んじるように思えてまた苦しむのだろうと思う。

半分ずつになったわたしは、自分の持てる精一杯で、2人の道を見守りたい。

清く正しく美しく、夢と感動を届けると謳う劇団に、こんな結末を見せられる。なんと劇的な幕切れか。

 

またわたしは劇団ファンにはなれなかった。

それでも。
初舞台化の天河がどうしても観たいと思って、久し振りでチケ取りのあれこれもまったくわからないなかどうにかもぎとった1回だけのA席で初めて見た瞬間から「この2人だ!」と思ったまかまどを見た、あの日から約2年半。
その時間は、本当に本当に、紛れもなく幸せな日々だったから。

その事実のために、わたしはもう少し、成仏せずに浮遊霊として生きる。